アンリ・マティスの場合
村山 正碩 (Masahiro Murayama) - マイポータル - researchmap
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マティス(1978)は、自らの芸術制作を二種類の自己への働きかけとして語っている。
第一に、それは自己表現、自分の感情の表現である。
私が何よりもまず追及していること、それは表現である。 (Ibid: 41)
私にとって、表現とは顔に溢れる情熱とか、激しい動きによって表される情熱などのなかにあるのではない。それは私のタブローの配置の仕方全体のうちにある――人体が占めている場所、それらを取りまく余白の空間、釣合いなど、そこでは一切が役割をもっている。構図は画家が自分の感情を表現するために配置するさまざまの要素を装飾的な仕方で整えるわざである。 (Ibid)
「はっきり言って、あなたの芸術理論はどういうものでしょうか」 「そうですね、このテーブルを例にとりましょう。私は文字通りにこのテーブルを描くのでなく、これが私に引き起こした情感を描くのです」 (Ibid: 52)
「いつあなたはある制作が完成したとみなすのですか」 「その制作が私の感動を非常に正確な仕方で表現したときです」 (Ibid: 53)
アンリ・マティス『夢』(1935)
第二に、それは自己理解でもある。
私は自分を理解しようと試みる。私の作品のそれぞれはこうした意味での一つの試みです。 (Ibid: 288)
自分の表現手段を会得したら、画家は「自分が求めているのは何か」を自らに問い、それを見出そうとする探究のなかで単純なものから複雑なものへと取りかかるようにすべきである。 (Ibid: 232)
マティスにおいて、芸術制作は自己表現のプロセスであると同時に、自己理解のプロセスでもあると考えられるが、これが正確にはどのようなプロセスなのかは定かではない。
マティスの芸術制作は、R・G・コリングウッドが主題的に論じている種類の自己表現として理解可能。
彼が直面している課題は、この経験を芸術作品に落とし込むという課題である。彼は何か重要な、あるいは感動的な、他とは一線を画す経験に遭遇した。その表現されずにいる重要性は、重荷として彼の心にのしかかり、それをどうにか表現する方法を見つけるよう彼に挑んでいる。そして、芸術作品を制作するという彼の労働は、その挑戦に対する彼の応答なのである。 (Collingwood 1946: 314)
ある人が感情を表現していると言われるとき、彼について言われているのは以下のようなことだ。まず、彼は一つの感情をもっていることを意識しているが、その感情が何であるかは意識していない。彼が意識するもののすべては動揺や興奮であり、そうしたものが彼の中で進行していることを彼は感じるものの、その本性について無知である。この状態では、彼が自分の感情について言えるのは、「私は感じている⋯⋯私は自分が何を感じているかわからない」ということに尽きる。この無力で抑圧された状態から、彼は自己表現と呼ばれるものを行うことで自らを解放する。これは私たちが言語と呼ぶものと関わりのある活動である。彼は話すことによって自分自身を表現するのだ。それは意識とも関係がある。すなわち、表現された感情の本性について、彼はもはや無意識ではない。それはまた、彼が感情を感じる仕方とも関係がある。表現されずにいるとき、彼は無力で抑圧された仕方でそれを感じるが、表現されたとき、彼はこの抑圧の感覚が消え去った仕方でそれを感じる。彼の心はどうにか明るくなり、楽になる。 (Collingwood 1938: 109-110)
では、コリングウッド的自己表現の内実はどのようなものか。
前提として、心の前意識レベルと意識レベルが区別される。
コリングウッド的自己表現の目的は、自分がもっているが、十分に意識していない感覚をより明確に(より正確に、より情報量に富んだ仕方で)意識すること。