『OMORI』におけるトラウマと行為者性の表現に注目して
村山 正碩 (Masahiro Murayama) - マイポータル - researchmap
今回のワークショップのテーマ=タイトル「美と行為」から、私はNguyen(2022)の以下の一節を思い出す。
以前、私はゲームについて、分析哲学の確立された用語で書くことに苦労していた。そんなとき、私の友人であり、長年の哲学仲間であるジョナサン・ギングリッチが、この問題の所在をじつに見事に説明してくれた。彼は言う。価値、合理性、行為者性に関する現代の哲学理論は、道徳家たちによって取り込まれている。私たちの理論は、倫理学者や政治哲学者が、自分たちに特有の関心事に対処するために設計された。その結果、私たちは、自分たちが厳格で、まっすぐで、生真面目な行為者であるという哲学的図式を受け継いできたのである。そして、次に芸術、美、遊びといった他の種の活動について考えようとすると、私たちが受け継いできた理論では分析が難しいことがわかる。そのため、哲学者は芸術や遊び、楽しさ、ゲームなどを些細なものとして片づけてしまう傾向にある。しかし、それは芸術や遊びのせいではない。私たちが受け継いできた理論のせいなのだ。 (Nguyen 2022: 477)
この一節に出会ったのは、芸術制作をはじめとする創造的行為に関する論文を執筆していた時期。私自身、行為論の文献を調べていて困り果てたのは、自分が扱おうとした現象、芸術制作における意図の一見奇妙なあり方がほとんど論じられていないこと。
紆余曲折あり、この論文は無事出版される。
論文のある箇所では、かばん語の翻訳という行為を取り上げ、その際に本発表で主題的に扱うビデオゲーム作品『OMORI』に登場する地名“BREAVEN”を例に出した。
この研究以降、美学の視点から私たちの行為について、または行為者としての私たちについて何か興味深い事柄を明らかにできないかということが私の問題関心の一つになった。
本発表では、Nguyenの議論を手がかりに、行為者としての私たちについて、ビデオゲーム、とりわけ『OMORI』から何を学ぶことができるかを探ることになる。
本発表では、ビデオゲームのゲーム的側面に注目することで表現媒体としてのビデオゲームの独自性に迫りたい。
Nguyen(2022)によれば、ゲームは行為者性(行為者としてのあり方)を媒体とする。
ゲームの芸術的媒体は行為者性そのものだ。ゲームデザイナーはゲームの最中に私たちがどのような人間になるかを形作る。かれらは私たちが何を気にかけるか、それを得るためにどんな能力を使うか、どんな実践的障害に直面するかを私たちに伝える。そして、かれらは物語を語ったり議論をしたりするだけでなく、私たち自身の成形された美しい行為の経験を与えるためにそうすることができる。 (Nguyen 2022: 84)
この議論の重要な帰結として、「ゲームは、行為者性のモードを記録し、それを他者に伝えることを可能にする」(Nguyen 2022: 84)。
マーサ・ヌスバウム(1992)は、物語はさまざまな細やかに調整された情動的視点を学ぶ方法であり、別の情動的視点から人生を生きることがどのようなものかを知る方法であると示唆している。私の提案は、ゲームは情動的視点の代わりに、実践的スタイルで同様のことを行うというものだ。ゲームは行為者性のライブラリを構成する。 (Nguyen 2022: 84)
Nguyenが著書で取り上げる『Minotaur in a China Shop』はその好例。
このゲームでは、陶磁店を経営するという長年の夢を実現しようと努める、大きくて不器用なミノタウロスを演じることになる。本作では、過密状態の陶磁店でミノタウロスを操作し、客が注文した品物を運搬することになっている。とはいえ、操作方法は設計上、苛立たしいほど不安定だ。ミノタウロスは動きが鈍く、コーナーを曲がるのがとにかく下手で、かなりの慣性で動く。また、さらに笑いを誘う要素として、あなたのミノタウロスが自分の在庫を避けがたく壊してしまうにつれて、彼はますます怒りを募らせ、不器用さと怒りの悪循環によって、ますます予測不可能な動きをするようになる。 (Nguyen 2020: 113)